2025年の個人的な目標として、
英語でのコミュニケーションを強化したいと掲げ、
専属のネイティブ先生にも恵まれて何とか3日坊主にならずにきています。
英語でコミュニケーションが必要になる機会といえば、
酒蔵YUKAWAを訪れてくださる外国人のゲストがメイン。
その他では海外クライアントとのメールのやり取りでしょうか。
それでも、最近ではほぼ毎日英語を話したり英語で書いたりする機会があり、
お陰様でずいぶんと英語に馴染んできたような気がしています。
目の前にいる、ナショナリティもパーソナリティも異なる人と、
少しでも会話ができてコミュニケーションが取れることで、
私自身のパーソナリティを肯定していくことができていて、
みんな、人それぞれでいいよね、って、
改めて強く受け入れられるようになってきています。
自分の子ども時代を振り返ると、
知らなくても何の問題もない些細なことを知らない私に対して、
あからさまにマウントを取って汚い言葉で罵られたことも多々あった。
中学生くらいまで、眉間の毛が濃くて眉毛がつながっていたのを、
その容姿を馬鹿にして「お前は○○なんだ」と、
なんの因果関係もないような言いがかりをつけられたことも多々あった。
所詮そんな程度だけれども、私にとっては辛い出来事でもあって、
生きづらさを感じていた時期も長かったし、
積極的に人とコミュニケーションをとるのが苦手でした。
大学生になって様々な地域出身の友人にたくさん出会い、
中にはトランスジェンダーの子もいたりして、
視野が狭くくだらないマウントとりからは解放されて、
自分自身を臆することなく出せるようになったのは、
私の人生にとって、とてつもなく大きな進歩だと今でも思っています。
私の人生において実現度が低いだろうと思っている
人生でやり残したことの一つが「海外生活」です。
そもそも海外生活を送ったことがある人は、
当たり前にナショナリティやパーソナリティの違いに直面しているわけで、
彼ら彼女らからしてみれば今更気づいたの?ってことだろうけれど、
少なくとも英語でコミュニケーションが少しずつとれるようになってきたことで、
目の前で対峙するその人を尊重しようという気持ちが、
これまで以上に強く持てるようになってきたと感じています。
子ども時代の早いうちから「ふつう」という言葉が嫌いで、
その言葉は私自身、様々な場面用法で投げかけられてきたんだけれど、
一体「ふつう」って何なの?って疑問がいつも頭から離れなかった。
人それぞれが持つパーソナリティによって、
「ふつう」は大きく異なるものであって、
第三者が誰かにとっての「ふつう」を定義すべきではない。
ここまで経営者として、私自身の「ふつう」を社員に押し付けたり、
違いを理解しつつも相手を許容できないことがあったりと、
様々な失敗をこれまでにも繰り返してきました。
年齢も経営者歴も年を重ねるごとに柔軟さを失ってしまってはならず、
英語のコミュニケーションは、私自身の柔軟性に対して、
よき影響を与えてくれているものだと、副次的な効果も得られています。
なによりも、自分の耳と言葉でコミュニケーションがとれる人が増え、
まだ「英語が話せる」レベルには達していないものの、
めちゃくちゃ刺激が多くて楽しいのは言うまでもありません。